君たちがいて僕がいる

吉本新喜劇で活躍された、チャーリー浜さんが御往生されました。

昨年の志村けんさんに続き、また一人、長年お茶の間を楽しませて下さったコメディアンがいなくなってしまうのは、時代の流れとはいえ寂しい限りです。


さて、チャーリー浜さんといえば「〇〇じゃあ~りませんか」というギャグで一世を風靡しましたが、その他にも代表的なギャグがたくさんあります。その中でも最近になって思わず「う~ん、実は深い言葉だなぁ」と感じているのが、「君たちがいて、僕がいる」というおなじみのギャグです。


君たちがいて、僕がいる、、、当たり前やないか!!と思わず突っ込みたくなりますが、実はこの当たり前が有り難いのではないでしょうか。


そもそも僕(私)の存在とは一体何なのでしょうか。私が私であるとは、周りの縁によって成り立っているものかもしれません。


例えば私は、御門徒さんから見ると住職であり、両親からすれば息子、妻からは夫であり、子どもからは父であり、先輩からは後輩であり、後輩からは先輩でもあり、気の合う仲間からは友人であり、レストランに行けばお客さんになります。これらはすべて私一人では成立しないものです。


つまり、私が私であるとは周りとの関係性の中で成り立っているものであり、ただそこに私がポツンと存在していても、それが本当の私なのかは分からないということです。それは、私は決して一人で生きているのではない、自分の気づかないところでも無数の縁に支えられて生きている、生かされているということではないでしょうか。


仏説阿弥陀経というお経に、お浄土に住む「共命鳥(ぐみょうちょう)」という鳥が説かれています。この「共命鳥」、身体は一つですが頭が二つ。まさに共命(命を共にする)鳥です。しかし、頭が二つあるのも厄介なもので、当然思考も二つ。考えや価値観が違うので相手のことを恨んだり、互いに憎しみ合ったりするようになります。


あるとき憎しみの我慢の限界に達した片方が、相手の食べ物に毒を盛ります。そんなことに気づかずにもう片方は、食べ物をペロリと平らげるのですが、、、って、どうなるか分かりますよね?

毒を盛られた方は苦しみ始めますが、やがてその毒は食べさせた方にもまわり、同様に苦しみ、命を落としてしまいます。毒を盛った方は、薄れゆく意識の中でこう思ったかもしれません。

「どんなに憎い相手でも、互いに支え合っていたからこそ、自分の命があったのだなぁ、、、」と。


私たちは様々な関わりの中で生きています。学校や職場、趣味の仲間や町内会、もしかすると家族の中でさえも価値観や考え方が合わずに、時に窮屈な思いをすることもあるでしょう。しかし、どんな相手であっても、その人が存在することによって、私が私でいられるのかもしれません。私の「いのち」は単独では成立しない、色々な関係性の中で成り立っているのだと「共命鳥」に気づかされます。


チャーリー浜さんの「君たちがいて、僕がいる」は、まさに大切な事を私たちに教えて下さっています。あなたがいてくれたから、私があるのですねぇ、お陰様です。とチャーリー浜さんが言って下さっているようにも思います。


チャーリー浜さん、すてきなギャグを有り難う御座いました。心より哀悼の意を表します。


合掌